その時の選挙では、小選挙区2回投票制から、県別比例代表制に制度が変わりました。
従来の制度では、第2回投票で不可避的に左右それぞれの陣営で連合、協力が日程にのぼったのにたいして、比例代表制は制度的にそれを強いるものではありません。
その回は、左翼にとって連合が全く議論にもならない近年初めての選挙となりました。
そして社会党が共産党の3倍以上の票をとり、左翼内での社会党の優位を決定づけました。
フランスの政治では以前には想像できなかったような事態です。
共産党は、20年前には20%以上の得票を得ていた県は96県中45県あったのにたいし、その回ではたった3県のみで、58県が10%以下となりました。
パリでは議席が全滅し、最低足切りの5%にも達しない後退ぶり。
「フランス共産党はパリに生まれ、パリに死すのか」とすらいわれる状況でした。
革命の伝統をもつパリでは、極右が共産党の2倍以上の票をとり、2名当選を果たしました。
パリ近郊の共産党の拠点、「赤いベルト地帯」はすでに81年にピンクに変色していましたが、その回は完全に社会党に首位をゆずりその半分以下の勢力に転落しました。
これと対照的に、極右は南部のブッシュ・デュ・ローヌ県では84年の3%を一挙に22%以上にのばし、第一党に前進。
国会と同時におこなわれた地域圏選挙では、極右は18県で保守の多数派形成にあたってのキャスティングボートを握りました。
極右は移民労働者とユダヤ人排撃の人種主義をあおり、共産党を敵とする極端な主張をおこない、左右両翼から「政治的パリア」(のけ者)とみなされてきました。
つい最近まで社会の注意すらひかなかったこのファッショ集団は、今後は国会議員団をつくり、エリゼ宮にも出入し、テレビでも発言できる1つの政治勢力となったわけです。
反ナチを国民的一致としてきたフランスにとっては、まさにセンセーショナルを通りこしたスキャンダラスな出来事です。
極右の単純な主張が失業、犯罪、将来への不安につけこんで憎悪と怨恨をあおり青年層にかなりくいこんでいる状況はフランス社会にとってたいへん危険な現象です。
こうしてフランスの政治地図は、大きく塗りかえられたのです。
このときすでに、かつての4大政治家族型から、社会党と保守連合という「2大政党化」への兆候がうかがえました。