ミッテラン大統領の公約により、コルシカ議会が、83年の選挙によって創設されました。
これには同島が歴史的に虐待され、いじめられてきたという認識と危機がひときわ深刻であることのほかに、自治強化による地方分権政策の強調がありました。
おそらくナポレオン以来のフランス政治の中央集権を、彼の出生地でもくずそうという挑戦の意味もあったでしょう。
コルシカでは、独立を唱えるグループが爆弾テロをくり返すという状況が70年代から続いており、不満をもつ他の島民の同調といった事態を防ぐ意味もありました。
コルシカ島は14世紀半ばごろからジェノバ共和国(イタリア)の領土とされ、1750年代には激しい独立闘争が展開されました。
この勇敢なたたかいは、同時期の米国の独立戦争とならんで欧州で注目されました。
同島は1768年フランスに委譲され、その翌年にナポレオンが産声をあげたのです。
ナポレオンはこうした経過から反仏精神をもって育ち、ついにはフランスを支配することになるのです。
アジャクシオはナポレオンの記念碑・像、その名を冠した通り・建物にあふれており、今日もなおナポレオン信奉者が多く、土地の誇りとされています。
市庁舎にはナポレオン博物館があり、遺品やメダル、金貨などが陳列されています。
通り1つへだてた生家も博物館に。
コルシカの運命は、フランス革命(1789年)とナポレオンの支配により大きく変わります。
フランス革命の年、コルシカ独立戦争を導いたパスカル・パオリ司令官は
「コルシカはみずからの鉄鎖を破った。
奴隷としてではなく、参加そして権利の行使のために自由なフランス国民と連合する」と語っています。
ナポレオンは第一統領や皇帝の時代、フランス本土とともにコルシカをみずからの直轄支配に入れ、ジェノバの総督府のおかれたバスチアから故郷のアジャクシオを首都にします。
しかし、ナポレオンの推進した全支配のパリへの集中という中央集権制は、後にコルシカを後進地に陥れる皮肉な結果となります。
コルシカは古代ローマ帝国の植民地とされて以来、ムーア人、ベルベル人、ピサ、ジェノバの支配を受けてきており、島民は名誉と復讐(バンデッタ)の習慣を今でも重んじ、独立心に富んでいます。
この島がフランスに編入され強く結びついているのも、結局はフランス革命とナポレオンによるものなのです。